2011/06/30

ジョージ・コンド/George Condoの軽さ




Kanye Westのアルバムジャケ



画像Google Imagesより


ジョージ・コンドはアメリカで非常に有名な画家だ。Kanye Westのアルバムのジャケに採用され、その絵を問題にされて発売中止になった事件があったり、スケートボードブランドsupremeのTシャツ、スケーボーの装飾に使われていてアメリカ国内だけでなく、日本でも少しは知名度が上がって来た様に思う。


 コンドは画家、アーティストに区分されると思うが、些か、全てにおいて軽さを感じるのは私だけだろうか。その軽さが影響してか、知名度がありながらも、アメリカを代表する画家とは誰も言わない所以が其処にあると思う。


 パリからニューヨークへ芸術の中心地が移り、活発な経済活動とともに新しい文化を発信して来たアメリカだが、今は発信地としてはそろそろ終焉を迎えるのではなかろうか。多くの世界の国々は民主化、資本主義化されてきた。今更、芸術表現がアメリカ社会の裏付けとしての自由であるとか、個人の権利、表現の自由など提示の代替えとして感じられても今更、何の効力も成していない。何故ならば、世界はほぼ同一になりつつあるからだ。立場を一緒にした国々が今思うのは、むしろ、アメリカの発信する文化の軽薄さが見えてきているのではないでしょうか。


 あらゆる物事の商業ベースでの価値決定、消費社会の虚栄の豊かさ、売れるか、どうかが物事の価値判断になっている現状、其れの象徴としてジョージ・コンドの作家のあり方が共鳴して見えてくる。アメリカの鏡、日本で言えば、村上隆などもその一人だ。株式会社村上隆。アメリカでは、ジョージ・コンド inc. と同じ様に発展している。


 良いか悪いかは別である。ただ現実的に軽薄であるのは事実である。買っては捨てて、新しいものを手に入れる。其れは価値転換のサイクルが早い事を意味し、株式会社で大量生産しなければ、捨て去れるだけである。ジョージ・コンドや村上隆などの軽薄さ、肉薄さをもった作家が出てくるのは当然の流れなのかもしれない。


 ジョージ・コンドはリミックス的で自己表現ではない。様々な要素を感じる。ピカソ風ベースであったり、ベーコン風だったり、様々な作家達がその時々の作品でリッミックスされている。美術の歴史を見れば、当然の様に色々な作家が作用し合いながら発展して来たし、其れが人間社会と言うものだ。歴史の中では、他者の作品を再加工し、提示するものもあった。しかし、コンドの場合、他作家の作家性のニュアンスをリッミックスするという複雑な事をしてくれた。その点でコンドに新しさを見いだす。彼の自己プロデュースの仕方はこの消費社会で生き残ってゆくの最善の方法ではないか。結局は軽薄であっても、其れが求められ、其れで生きてゆくしかなければ、致し方のない事なのだ。






 


 


 

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